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開催趣旨

〈東アジアと同時代日本語文学フォーラム〉は、日本・韓国・中国・台湾の日本研究者が各地域を毎年巡回しながら一堂に集う研究集会として2013年に創設された。その狙いは、大きく言って、⑴各地域における近代以降の日本語文学、及びその文学と各地域の文化との接触を、東アジアという横断的な視座から議論すること、⑵学術的な横断性と地域的な横断性を掲げ、一分野一地域にとどまらず、日本研究を東アジア規模で推進していくこと、⑶共同で次世代の研究者を養成していくこと、にある。

2013年度創立大会は高麗大学校(韓国)、2014年度は北京師範大学(中国)、2015年度は輔仁大学(台湾)で開催されている。第4回となる2016年度は10月28〜30日に名古屋大学及び博物館明治村で開催される(運びとなっている)。

同フォーラムは2014年度に国際査読誌『跨境 日本語文学研究』を発刊しており、現在第3号まで刊行されている。上記4地域で販売・頒布されている他、編集委員・査読委員の存在するアメリカ、ドイツ、フランスの研究者たちにも頒布している。なお、同誌はSCOPUS(エルゼビア社提供の世界最大級の学術データベース)への登録を目指して現在準備中である。

名古屋大会のテーマは「集団の記憶、個人の記憶」である。日本・韓国・中国・台湾の日本研究者たちが、戦争や植民地を巡る記憶等を取り上げて、その認識のズレや、ローカル/グローバルな知的枠組み等について議論する。記憶は現在、歴史認識の齟齬に揺れる東アジアにおいて焦点の一つとなっている。記憶と文学をめぐっての忌憚のない議論が展開され、それが東アジアにおけるより深い相互理解へとつながることを期待している。

趣意文

​総合テーマ「集団の記憶、個人の記憶」

 人はそれぞれ記憶を抱えて生きている。記憶は、アイデンティティの拠りどころである。その人が何者であるのかは、その人がかつて何者であり、かつて何を行ったのかということの記憶と不可分である。その意味で、記憶はあくまで個人的である。

 他方で​、集団的な記憶という考え方もある。私たちが個人的な記憶であると考えているものは、実は共同的な作業・作用によって構築されたものであったりもする。学生時代の記憶が、仲間との対話や回顧作業によって構築されたり、ある出来事の記憶が、国家的な歴史教育やマス・メディアの報道によって形成されたりするという例が考えられよう。この場合、集団的な記憶は集合的なアイデンティティのあり方と密接なつながりをもっている。

 記憶は、個人と集団の結び目に立つ。個人は、集団的な記憶の編集作業にさらされ、記憶を媒介にしてその集団のなかに組み入れられたり、逆に集団から疎外されたりする。あるいは、集団の記憶とされる一つの型に、個人の記憶が抗うという場合も考えられるだろう。東アジア各地域の歴史認識の懸隔がさまざまな軋轢の種となり、その緩和や修復の試みが求められている今、この個人と集団をめぐる記憶の問題は非常に重要である。

 このように個人と集団のあいだを結ぶ力学のなかにおいて記憶の問題を考えたとき、そこに文学がどのように関わったのかという問いが開ける。文学は一人の人間の私的な記憶や経験を語ることができる。この面で文学は個人的である。その一方、作品=商品として​社会に放たれる文学作品は、その私的な記憶や経験を集団のものとしうる力をもっている。文学作品の描く記憶は、たとえそれが個人的であっても文学という社会的営為を介して集団的な記憶の形成に参与するからである。

 文学と記憶をめぐるアプローチにはさまざまな形がありえよう。作品のなかに描かれた思い出を論じることもできれば、現実の出来事をを文学の表現がどのように捉えたかという観点からも​考えられる。また一つの作品が、人口に膾炙したり、正典化したりすることによって、人々の集団的記憶形成の糧となることもあるだろう。逆に、同時代には記憶として意識されていなかった出来事が、文学テクストにまとめられることによって、集団の記憶として創られていくことさえあり得る。

 記憶にとって、出来事を言葉として書きとどめ、拡散させていく文学の存在は、実に重い。そして文学にとっても、記憶の問題は根幹的なテーマでありつづけている​。

​ 今回のフォーラムでは、「集団の記憶、個人の記憶」という総合テーマのもとで、「記憶×植民地」「記憶×戦争」「さまざまな記憶」の3つのセクションを設けて、東アジアの日本語文学を考える。記憶と文学の問題を起点として議論する今回のフォーラムが、東アジア地域におけるより深い相互理解につながることを願っている。

東アジアと

同時代日本語文学フォーラム

​名古屋大会

2016​/10/28〜30

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