名古屋大学人の会
「戦争法案を考える名古屋大学人の集い」 メッセージの紹介
2015年8月29日
加藤延夫さん(元名古屋大学総長)
私は1930年に生まれました。翌年(1931年)には満州事変が起こり、小学校6年生のときに真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入しました。敗戦の年、私は15歳でしたから、軍国主義の真っ只中で、15年間を過ごしたことになります。
軍事工場を多く抱えていた名古屋は徹底的にアメリカ空軍のB29による空襲を受けました。敗戦までの間に計70回の空襲があり、名古屋はほとんど焼け野原になっていました。この焦土の中で、学徒勤労動員により、名古屋市電の車掌としておよそ2年間勤務しました。私はそれでも、日本が負けるとは思いませんでしたので、陸軍航空士官学校を受験しました。しかし、入校直前で終戦になりました。後から考えてみると、教育の力というのは実に恐ろしいものですね。
このような経験を踏まえて、私は常々、若い学生さんにむけて次のように言ってきました。「自分で過ちを犯せば修正がきくけれども、国を誤らせたらどうなるのか、あるいは地球市民として、地球を誤らしめるような結果になったら取り返しがつかないのではないか。そして、そうならないためには、あらゆる場面、あらゆる機会をとらえて自らを磨いて、どれが真実かどれが正しいかを見極めることができるようにしなければならない。」
現在の安保関連法案の論議を見ていても、この思いをさらに強くしております。名古屋大学に集う人々が大学人としての自己を磨き、国や地球を誤らせることのない選択をするときではないでしょうか。
名古屋大学人の会によせて「永遠(とわ)の想い」
平野 眞一さん(元名古屋大学総長)
私は、1942年に知多半島の美浜町で生を受けました。父は、生後80日で徴兵されてラバウルへ出兵しましたので、戦後に帰還した時には、すでに4歳になっていた我が子の顔も分からない状況でした。
人の人生には何度となく転機が有りますが、アメリカの大学にいた時に、ベトナム戦争に疑念を持っていた友人が戦場へ送られた、あの無念さは忘れることはできません。私にはまた、父を戦争で亡くした友人、戦争のもたらした貧しさ故に進学を断念しなければならなかった友人も多くありました。
私たちは、あの戦争に至った国の在り方を検証し、国の行く末に責任を持って活動しなければならないと思っております。何れの国も、武器によって人が殺される中では、決して真の平和が訪れることが無いことを肝に銘じるべきだと考えております。次の世代を担う世界中の大切な子供達に、戦争の悲しさ、残酷さを絶対に経験させてはならないと強く思うからです。
1960年代に、私たちも参加した安保反対運動の声は、時の為政者の「声なき声を聴く」という欺瞞で、黙殺されました。その時の状況がダブって見えると危惧するのは私一人ではないと思いたい。わが国の立憲民主主義の根幹が揺らいでいる今、声をあげなければ次世代に禍根を残すことは必至であります。動きましょう。
松田正久さん(前愛知教育大学学長)
私は1970年3月理学部物理学科を卒業しましたが、母校である名古屋大学に「自由・平和・民主主義を愛し戦争法案に反対する名古屋大学人の会」が結成され、「戦争法案」反対の運動を進められていることに、心からの賛同と敬意を表します。
日本の戦後の教育は、新しい憲法の下で、「教え子を再び戦場に送るな」を先生が誓うことから出発しました。
わたくしの勤務していた愛知教育大学もそのことを確認し、新制大学としてスタートしました。わたくしもささやかながら、憲法と大学の在り方など、 9条がいかに素晴らしいかを、学生たちに訴えてきました。
憲法前文の「平和主義」とその裏付けとなる9条の国際紛争の解決に対する武力の否定、その具体としての「交戦権の否定」及び「軍事力の不保持」の もとに、私たちの日々の暮らしがありました。
戦後70年、憲法の「平和主義」を否定しようとする勢力とのせめぎあいの中で、自衛隊という「軍事力」を持ちながらも、自衛隊が他国の戦争に加担し軍事力を行使することなく、これまで来ました。この事実は、憲法があったればこそだと思いますが、恥ずかしくも安倍政権は、憲法違反の集団的自衛権の行使可能とする「安保法案」を成立させ、日本を「戦争する国」に作り替えようとしています。
これに対し、全国の100に近い大学・学園で反対運動が起きていますし、学生を中心に若い人々が「戦争に巻き込まれるのは嫌だ」の一点で様々な形で反対運動に参加してきています。
いまこそ、名大平和憲章の原点に立ち返り、「名古屋大学人の会」の呼びかけに一人でも多くの方々が賛同してくれることを願いつつ、わたくしも皆さんとともに「戦争法案」を阻止するために頑張っていきたいと思います。
辻真先さん(作家、卒業生)
辻真先と申します。名古屋大学文学部を1954年に卒業、テレビの制作演出を経て、アニメの脚本とミステリ・SFなどを書いている者です。
戦時には中学がまるごと兵器工場とされ、1945年3月3度にわたる名古屋空襲で焼夷弾相手に戦いました。いまだにサイレンの音はトラウマになっています。
だがあの戦いを被害者の目から見るだけでは誤ります。戦前いわゆる新体制のバスが走り出すと,大人はわれがちに飛び乗って戦時体制へ向けて突進しました。
江戸川乱歩の『怪人二十面相』も谷崎潤一郎の『細雪』も中断させられています。
すべてはお国のためでした。
ささやかでもものを書いて暮らしているぼくには、ひとごとではありません。大人たちの良識が戦時下にどう曲げられたか。それを不自然と思わないのが日本人の常識でした。戦争を肯定する姿勢のグロテスクな滑稽さは、しかしいったん走り出したらブレーキがかからないと肝に銘じています。
あの時代は日本中が加害者だったのです。その空気を子供ながら肌で感じた者として、拙文をつづりました。二度とそんな日を迎えないために。
ご静聴ありがとうございました。